名前 : 山下 眞澄美( やました ますみ)

居住 : 福井県

経歴 : 信越化学工業株 
      テクノス株式会社
      カローレ起業
      ジブラルタ生命

2022年8月
パーソナルファイナンス 設立
カローレ (カバーメイクサロン) 副代表
2024年3月
クリイト株式会社 (乗合代理店)兼務
   
     

保有資格 : 2級ファイナンシャル・プランナー技能士
         AFP (AFFILIATED FINANCIAL PLANNER)
         第一種衛生管理者
         健康経営エキスパートアドバイザー
         貿易実務検定B級
         アンガーマネジメントファシリテーター
          (ナショナルライセンス)

趣味 : ゴルフ、 ヨガ、 ダイビング、 読書、 旅行、温泉(大のサウナ好き)

マイストーリー   ~これまでの私とこれからの夢~

         

皆さん、幼少のころの思い出ってどんな事を覚えていますか?
楽しい思い出もあるかと思いますが、強烈な出来事って忘れられずに記憶に残っていると思うのです。今の私をリアルに知っている人は、今まで順風満帆で辛いことや大変なことが何もなく、全て思い通り願いが叶い、羨ましい人生だと思っている方がとても多く実際にそう言われることがとても多いです。
ある意味、その期待を大きくひっくり返す事が私の今までの人生で起きてきました。
でも、その出来事があったから今の私がいる!とも思っています。
私の今までとこれから、そしてなぜ私が今の仕事に就いているかを知って頂けたらと思います。      

私ってみんなと違う・・? 幼少期

私がはっきりとした記憶を持っているのは、大阪でとても大きな幼稚園に通いだした頃です。
幼稚園の入園時には背の順番で一番後ろのポジションを、男の子を差し置いて確保しました。
先生がお友達同士を背中合わせにして背比べして、背の順番を決めているのに、私はそんなことをしなくても良いくらいに当時から背が高かったのです。そして、この高身長がのちに最大のコンプレックスになることも当時は思っていませんでした。
幼稚園では同じ学年で一番背が高く、そのまま小学校に入学。
この入学式の集合写真を見たことで、私の身長コンプレックスが始まりました。
出来上がった写真を何度見ても、どう見直しても違和感の塊でしかなく、今では笑えますが当時は衝撃過ぎて言葉が出なかったのを覚えています。
写真というものを通して客観的に自分を見ることで衝撃を通り越して、トラウマのようになってしまいました。
少しでも身長が低く見えるように・・。と次第に猫背になり姿勢が悪くなっていき、そのことで母親に怒られるという悪循環が始まります。
入学と同時に、「みんなと違う・・」という事を感じてから、

色々なことで同じように周りと比べるようになってしまいました。


私がもつ色々なコンプレックスのきっかけになった出来事でした。

したくなかった転校・・・小学生時代

実は、入学式には母親しか出席していません。私がランドセルを背負いだしたとき、父は病院で闘病生活に入っていました。
何となくの記憶で、お弁当を持っていった記憶があったのですが、私がはっきりと覚えている父の姿は、病院着でベッドの上にいる痩せた父の姿でした。後から聞いたのですが、父の闘病生活は約1年半続いていたそうです。
たまに外泊が許されて自宅に戻ってきたときは、私がいつも父親を独り占めして、3歳下の妹はいつも我慢をしていた! と母に聞かされました。私は父親っ子、妹は母親っ子だったみたいです。
そんな中、大きな出来事が我が家に起きます。クリスマスを目前にして、父は病に勝てずに旅立って行きました。
寒い12月の冬空の中、父の葬儀が執り行われ、骨となってしまった姿を見たときに、
あまりの衝撃で固まっていたのを叔父がみて、そっと手で私の目元を隠してくれました。
父も母も兄弟姉妹が多く、それぞれ6人いましたから、葬儀の時は大人数となりました。
父は大工の棟梁をしていたので、同じ大工仲間も駆けつけてくれたそうです。
大工の棟梁というと、聞こえはいいのですが、個人事業主なので公的な保障は期待できません。実はこの時、我が家は生活保護を受けていました。

生活保護を受けるという事は、財産はすべて手放さなくてはいけません。
昔は、家にクーラーがあっても申請は通りませんでした。
ですので、大阪で暮らしていたとき、クーラーはありませんでしたし、車も手放しました。(母は免許すら持っていませんでしたし・・)
そして、保険も解約をしてやっと生活保護申請が通ったのです。


この経験は、のちに私の人生に大きな影響を及ぼします。


治療費も借りていましたし、葬儀代もない。そんな我が家が身寄りもなく大阪で暮らすことはできないだろうと、母の兄弟の「福井へ帰ってこい!」 の言葉で、私たち家族は葬儀後に福井へ引っ越すことが決まり、私の転校も決まりました。
この時、幼いながらに大人たちが話している言葉は理解できませんでしたが、雰囲気から感じ取れるものは・・。
私たちはお荷物のようだ・・。という空気感です。

3学期の終業式のあと、前に出てお友達とのお別れの挨拶です。
でも、言葉が出てきません。だって、福井へは行きたいと思っていないから・・。
みんなからの寄せ書きを受け取り、ただただ泣いていたのを覚えています。
福井へ来てから、母は 「母子家庭だから・・。」と言われることに抵抗があったのか、私や妹に習い事をさせ、しつけも厳しいものになっていきました。

関西弁を話す私は学校でいじめを受けるようになりました。
2年生が終わり、クラス替えが行われ話しができる数少ない友人と別のクラスになってから、休み時間になると私は逃げるように図書館へ行き本を読み漁るようになりました。色々な本を読み、主人公になりきることで現実から逃げられていたのだと思います。
母子家庭のレッテルを見返してやりたい気持ちが強い母は、子供の人生に自分のできなかったことを当てはめだします。
バレーボール選手として中学生から社会人までやっていた母がスポ少の監督になり、私と妹は知らない間に部員になっていました。
小学6年生の時点で168cmも身長があった私は母にとって「バレーボールをするために生まれてきた」ものだったのだと思います。

変われると思った・・・中学時代

いやいやながらにしていたバレーボールは、中学になったら辞めるつもりでした。
別の自分の好きな部活に入る! そう思っていたので、中学校入学はある意味とても楽しみでした。
中学校に入ると、私の身長は170cmを超えていて、やっぱり入学当時から目立ちます。
当時、部活に入らないという選択肢は選べなかったので、どこかには属さなければいけなかったのです。

ん~。漫画を読むのも好きだから、アニメ部もいいなぁ~。と思っていた矢先、信じられない言葉が母から出てきました。
「バレーボール部の顧問の先生に、娘をお願いします。って挨拶しておいたから、入部希望届を出しておいてね。」って・・・。

えっ・・・?  私、他のやりたい部活に入りたいのに・・。なんで・・?
絶対に嫌だ! の言葉が、私の口から出てきません。


「わがままを言ってはいけない」そうだ・・。おかぁさんの言うとおりにしなきゃ。
きっと困ってしまう。おかぁさんの自慢の娘にならなきゃ・・・。

 自分の気持ちを押し殺すことで、家の中での居場所を作りたかった・・。
当時の私には、居場所がなくなる怖さが大きく、子供らしさをなくしていた気がします。
そして、私は創部以来ずっと弱小チームで有名な女子バレーボール部に入部しました。
そして心に誓います。


高校生活は、誰にも邪魔されたくない!と。


そんなときに、ありがたくない話が舞い込んできます。
何をどう見たのか? いや、見たのは身長だけだと思うですが、福井県内で1位と2位を争う高校2校から、
スポーツ推薦で進学の話しが来たというのです。
学校としては、スポーツ推薦が向こうからくるのと、こちらから出すのでは全く立場が違って、向こうから来たら100%合格!
しかも、あの弱小チームでそんなことが起きれば、次の年の入部希望者を増やせる!
先生も必死です。そして、私立の学校はさらに大きなお土産を置いていきました。

「スポーツ特待生にしますので、うちに来てくれれば学費免除です」

この言葉は私ではなく、母のハートを打ち破りました。(笑)

母子家庭で私立なんて無理・・。それが、あの高い学費も部活費もいらないなんて!
しかもバレーボールでは県内一番の実力校。国体もインターハイも出場してる!行かせない理由がない!!
変なスイッチが入った母の行動は恐ろしく早くて、翌日には学校に仁愛高校への推薦入学の意向を伝えていました。

なんでこんなことになるのかなぁ・・。 私って、ずっとこんな人生を送っていかなきゃいけないのかなぁ・・。 
ずっとおかぁさんの顔色を見ていなきゃいけない・・。何一つ、自分のやりたいことはできないんだ。
もちろん、神様なんていないと思っていたし、私だけこんな目にあうのは不公平だ!と思っていました。

人生で一番がむしゃら・・・高校生時代

入学前の春休みから合宿が始まり、中学の卒業祝いのデイズニー旅行がなくなりました。
そして、自宅から通っていた私は、始発で学校へ行き終電に飛び乗りかえってくる。
ご飯を食べてお風呂に入るためだけに家にいたという生活が始まったのです。
人生で一番楽しいであろう高校生活。なんで私は、女子高にいてしかも朝から夜までバレーボールしてるんだろ?

3年間の間で部活の休みは5日もありませんでした。
県内大会で優勝し、そのままバスに乗って合宿所入りし日が変わっても練習。
夜中の2時ごろに練習が終わって、1年生は先輩の練習着の洗濯やマッサージが残ってます。休むことができるのは明け方になってから。
翌日は6時には起きて、早朝練習が始まります。
監督にビンタされるのは毎日のことで、失神してもそのまま放置。練習場で父兄の見学は許されませんでした。
聞いた話では、以前に練習風景を見ていたおかぁさんが、あまりの激しさに倒れてしまったらしいです。

高校での3年間。スポーツ特待生で入学したからには、成果を出さないといけなくて、例年通り国体、インターハイの出場はもちろんでしたが、北信越大会で数年ぶりに優勝できたとき、やっとすこしホッとできたのを覚えています。
この3年間のバレー漬けの生活は、今までの人生で一番がむしゃらに動いていた時で、同時に一番やり直したい3年間でもあります。
何しろ、学校の授業中は寝てましたし、学校祭は途中から練習が始まり、みんなが楽しんでいる間も、部活で汗を流していました。

そこまで頑張っても、全国大会に行くと対戦相手のレベルの差を身に染みて感じます。
春の高校バレーでは、代々木体育館で試合しましたが、対戦相手をみて絶句です。
平均身長が10cm以上高い相手チーム。
同じレフトエースポジションは180cm超えの選手です。

いや・・。もう女子ではないやろ・・・。
ジャンプしなくてもブロックできるなんて反則や!

 どれだけ練習しても叶わないこともある。 努力は必ず報われるわけではない。という事をすごく感じた瞬間でした。

スポーツで入学した生徒は、ほとんどが商業コースを選んでいました。
ただ、私は進学コースに進んでいたので、短期大学、もしくは4年生大学への進学を目指すことになります。
もちろん、自分でも進学する気持ちでしたし、進学希望の大学も決めていました。
ここで、やっと自分のやりたいこと、自分の人生が歩める! はずだったのですが、
また、母の変なスイッチが押されるのです。地元の実業団チームから、バレーでの入社話しがきている・・。
しかも、その企業は母が仕事している会社です。
誰よりも先に母に話しが伝わり、そしてスイッチの入った母は、また驚く行動にでます。

私が知らない間に、担任の先生へ実業団チームへの就職の返事をしていました。
もう、自分の身に何が起きているのかわからない状態です。えっ? 誰が就職するの? 私、短大に行きたいのに・・。
もしかして・・。まさか・・。 ここでも好きな道に進めないの?

嘘のような話しです。純粋にバレーボール大好きな選手に起きていることなら、とてもハッピーなことなのですが、私は正直なところバレーボールが好きではないんです。

もっと他にやってみたいことがたくさんある!なのに、どうして私は自分のやりたいことが何もできないの・・?

運命が変わりだした・・・社会人時代

夢を持って社会人になっている同期入社の同僚とは裏腹に、全く夢もなく、仕事をしながらバレーをすることに絶望的な気持ちで入社した私は、驚くことに本社直轄の研究部門の部署に配属されます。
同じことは3回言わない先輩。 仕事の引継ぎでは、ずっとメモを取りながら泣きながらの二か月でした。

先輩の送別会と同時に、定年退職の方の送別会も兼ねて開催されました。そして、そこで私の価値感や人生が大きく変わり始めます。

定年退職のAさんは、いつもとっても不機嫌。眉間にしわを寄せながら、毎日タバコを1箱以上空けるヘビースモーカー。
とても近寄りがたい存在でした。

送別会の席でAさんに呼ばれて横の席についたとき時、今までにない声のトーンで私にこう言い始めました。「眞澄美ちゃんさ、なんで猫背になってるわけ? 身長高いのが嫌なの?」
「はい・・。これだけ身長高いと目立つし嫌です。私、目立ちたくないんです。」
そういうと、Aさんは急に真顔になってこう言いました。

「あのね、俺からしたら眞澄美ちゃんの身長は、とっても羨ましいわけよ。
隠すなんてもったいない! みんなに見せつけるくらい堂々としてほしいね。あなたは世界に一人で、みんながお金を出しても買えないものを持ってるんだよ!次に会ったときは、シャンと背筋伸ばしてモデルのように堂々としてるんだよ!」

と・・・。私の大きなコンプレックスを、逆に羨ましいと言われるとは思ってもいなかったので、本当に驚きました。
もう、驚きと嬉しさと、寂しさでぐちゃぐちゃです。初めて自分が認められた気がして、本当にうれしかった瞬間でした。

このAさんの言葉がきっかけで、物事の見方が大きく変わりました。
ものすごく嫌いだった身長は、お金を出しても買えないものとなり、とても価値が上がりました。そうか・・。
お金を出しても買えないものを、私は持っているんだ!

この価値観が、大きな自信に繋がり、色々なことが変わりだします。
もちろん、仕事後にバレーボールの練習仕事後の5時から9時まで毎日あります。週末は連取試合や遠征でした。決算前は、さすがに残業させてもらいましたが、それでも何とか一人で仕事をこなしていました。高校時代の合宿に比べれば、たいしたことない!と思えていた自分がいました。

入社して2年過ぎたとき、全国実業団バレーの北信越予選大会がありました。
もちろん、大会にも出場してましたし、本大会は沖縄なので絶対に勝ちたい試合。決勝まで順調に進んで、あと1試合で沖縄行きが決まる!試合が始まり、5分後。私はコートの上で倒れていました。地時に滑ってしまい左ひざの靭帯を切ってしまったのです。

そのまま即入院となり、内視鏡で膝の中をみると、予想をはるかに超えたダメージで、

先生に呼ばれてこういわれました。

「左ひざの前十字靭帯は切れています。外側の靭帯も伸びています。半月板の損傷が激しくて、スポーツをこのままするなら、東京の専門の病院での手術が必要です。日常生活でよければ、ここでも手術できますがどうしますか?」

この言葉を聞いたとき私は、「先生、歩けないわけでないですよね? 普通の生活が送れるのであれば、ここで手術を受けます。」と伝えました。

これで、バレーボールから解放される!という気持ちが強かったのです。

約12年間、バレーボールをしてきましたが、一瞬で終わりました。

たった1回の着地ミスで、選手としては何の価値もなくなってしまった。

バレーボールから解放されたと同時に、バレーボール以外に何もない私は、価値があるの? と思えて言いようのない気持ちがあふれ出てきます。

手術は7時間にも及び、私の左ひざには人工靭帯が入りました。半月板はなくなり、伸びた靭帯はリハビリが必要になりました。入院生活は三か月にも及び、毎日行われる辛いリハビリで体重は10キロ近く落ちました。

バレーボールで入社したので、これからのことを考えると、会社に居られないのではないかと相談したところ、上司はこれまでの仕事ぶりを評価してくれて、それは関係ないから今まで通りに仕事を頑張ってくれ!と言われました。

ただ、私の中でどうしても整理がつかず、ちょうど結婚の話も出ていたので、結婚退職という形で退職することになりました。
当時、結婚後にそのまま残る女性社員はいなくて、みんな結婚退職をする会社だったのです

夢に向かった・・・結婚生活

結婚後数年は子供を作る予定がなかったのですが、結婚後半年後には娘を妊娠しました。
つわりもひどくなく、無事に出産し、二年後には息子を出産。
毎日、子供と向き合う生活が続いていました。

結婚と同時に、生活保護を受けていた私が初めて持った大きな夢。


絶対に家を建てたい! 

この、夢に向かって全力で取り組みだします。
家計簿をつけ、年収350万円ほどだった主人のお給料から、毎年100万円を貯金していました。
手取りで280万円ほどしかないところで100万円の貯金ですから、かなり節約をしてました。当時、「主婦の友」という婦人誌があったのですが、私の貯金方法や節約術を取材させてほしいと依頼が入り、取材を受けたこともあります。

小さい記事だろうと思っていたら、なんと4ページも使って紹介してくれて本当にびっくりしました。全国誌だったので、反響も大きくて友達からも先輩からも連絡が入り、家計簿を公開したことを少し後悔したのを覚えています。

そして、この時にファイナンシャルプランナーの資格の存在を知り、取りたいと思うようになりました。
福井の田舎で120坪の土地を買い、一戸建て住宅を建てる。

しかも、見に行ったハウスメーカーは飛び切り高いモデルハウスばかり。
それでも、当時はあこがれていた家を建てれる嬉しさで、感覚がおかしくなっていた気がします。
頭金、600万円を入れて、3500万円のローン生活が始まりました。
そして、この後4年後に思わぬことがやってきます。

誰が家を継ぐのか・・・決断

主人は4人兄弟の末っ子でした。上に二人の姉と兄がいて、三人とも県外に出ていました。主人が私と結婚したことで、結婚していないのは年の離れた長男の兄だけ。
いつかはやってくるであろう、後継ぎ問題が突然やってきます。いつまでも戻ってこない兄。だんだん年齢が進む両親。
それに、結婚して子供もできて、安定している我が家。こうなると、頼りにならない長男より、近くにいる次男が頼もしく思えます。
ですが・・・。主人の実家は、普通の家ではありませんでした。

実は、ある宗教をしていて、檀家さんまでいる家系。
その宗教は、福井では多い仏教や浄土真宗とは違い、なじみのない宗教。
当たり前ですが、そこの子どもがその宗教を継ぐことで檀家さんを守ってきています。結婚の話が出た当時、そのことは私には伏せられていました。結納をしたあとに、その話がでて、初めて主人の実家が宗教を広めることをしていることを知ります。

私たちが継ぐという事は、そのあと息子も同じ道を歩ませることになります。
子供に好きな道を歩ませたいという気持ちが強い私は、断固反対です。
私と同じような目にはあってほしくない。私は宗教と結婚したわけではない。だんだん、私たち夫婦に溝が生まれ始めます。

そして、とうとうそれは修復ができないくらいに深くなり、離婚を決意しました。

離婚した当時、娘は小学校の4年生で息子は2年生でした。
名前が変わると、いじめられるかも・・と思い、そのまま山下の姓を作りました。
離婚で元の姓に戻ると、また母の束縛にあいそうで嫌だったのもあります。
できる限り子供には負担をかけたくない。住む場所はどうしようか・・? と考え、子供に聞くと、
「引っ越すのは絶対に嫌だ!」というのです。

いや・・・。でもさすがにこの家のローンは大きいから、私一人では無理・・。どうしよう・・。と悩んでいたとき、目についたのが、
住宅ローンの借り換え相談会 の案内でした。
ダメもとで、地元の労働金庫の相談会に行き、担当の方に相談しました。この担当の方が、本当に良い方で今でも感謝しています。
当時、私は繊維会社で働いていて、主任職までになっていました。
ほぼ定時あがりの事務員でしたが、会社の業績が好調でボーナスが3回出るなど優遇にも恵まれていましたので、事務職にしては年収が高かったのです。私の年収と、母の収入を足すことで借り換えができるようにしてくださり、何とかそのまま引っ越すことなく住むことができるようになりました。

ただ、同時に私はシングルマザーで家のローンが3000万円以上抱えることになったのです。

この経験から、色々なことを知らないことはマイナスにしかならない。生きるために必要な事は、もっと山ほどある。もっと生き抜く力が必要だ!
という事を痛感しました。

新しい人生の転機・・・転職

毎日、必死で仕事をしていました。二人の子供を育て、家のローンを返していかなくてはいけないので、止まってられないのです。
そんな中、私のことを心配してくれた友人が共通の友達に私の事を相談してくれました。その相談した相手が、まさに今の主人なのです。

当時、離婚したことは周りにはあまり伝えていなかったのですが、友人のその言葉をきっかけに今の主人には離婚の経緯などを話すようになり、お互いにバツイチだということを知ります。

みんなで一緒に過ごすことで、子供たちも楽しめていたと思います。大きなことはできなくても、できることはしてあげたい気持ちが強かったので、私も必死でした。そんなあるとき、主人から「一人で背負わなくてもいいんじゃない?俺、半分持つよ。」
と言ってくれ、再婚の話がでました。再婚する気が全くなかった私は、冗談を言われているとしか思ってなかったのです。

再婚したらもう離婚できないよ。墓場まで一緒だよ? 冗談でしょ・・。と思っていましたから、自分でもまさか本当に再婚するとは思っていませんでした。

二人の子供たちも懐いていたこともあり、婚姻届をだすことで新しい家族となりました。そして、再婚後に主人は少しでも給料がいいところじゃないと・・と考えてくれ、転職して今のトヨタ系のグループ会社に就職をしてくれました。そして、同じころ私も転職をすることになります。

当時、繊維関係の業界は中国産の商品が多く出回ることでとても苦戦していました。
そんな時、貿易実務の資格を持った私は、たまたまゴルフクラブを作る会社で求人が出ていることを知ったのです。
繊維関係はこの先明るい兆しがないし、せっかく資格を持ったし転職もありかも・・。と思い、思い切って面接を受けたところ派遣でしたがとてもいい条件で受け入れてくれることとなり、転職をすることになったのです。

またゼロからのスタートでしたが、せっかく掴んだチャンスですし、資格を活かすことができると思い、とても楽しみでした。
新しい会社は、ゴルフクラブを組み立てる会社です。その会社では、生産管理をできる人がいなくて、私が前職の繊維会社で生産管理をしていたことを派遣会社から聞いたらしく、即採用に繋がったみたいです。

自分自身もゴルフをしているので、製造工程を見れることはとてもうれしかったですし、東京での展示会に参加したり、時には楽しい仕事もありました。

ただ・・・。2代目の社長が・・・。とても残念な方でした。製造現場においてある机の前に座り、携帯でゲームを始めるという、なんとも情けない社長でした。気に入らない社員は、すぐにクビにしてしまい、長く続く人が少なかったのです。
私も、この社長にはついていけないのでは・・?ここで学べるものはないかも・・。と思い、自分で仕事をすることを考え出します。
そして、主人に相談しました・・。
「自分で仕事をしてみたいの。3年たってもうまくいかなかったらすぐに事務員に戻るから、少し時間をくれないかしら? 」と。
40才をすぎてから起業しようと思ったのです。

自分で仕事すること・・・起業

試合中の大けがで、私は左ひざに40針以上の傷跡があります。怪我をしてから、私はスカートをほとんど履かなくなりました。傷跡を見られることに抵抗があったからです。怪我のあとに行った手術は、治すためのもの。
歩けるようになり、座ったり走ったりできればそれでよかったので、見た目は関係ありません。怪我をしてから20年近く経っていても、スカートを履く勇気はなかなか出ませんでした。

カバーメイクで隠すことができると、美容師の友人から聞き、すぐに調べ始めました。すると、本当に綺麗に隠すことができるのです。
これは同じように悩んでいる人には、ものすごく必要なサービスになると思い、すぐに技術習得のために県外まで出かけていきました。
ハリウッドの映画撮影でも使用される特殊ファンデーションを使い、タトゥーやシミ、ニキビ跡を隠すサービスをブライダル向けに始めたい。
きっとサービスを求める人はいるはずだ!と思ったのです。

地元の商工会議所主催の、起業セミナーに参加し、事業計画書を書き、試しに融資も受けてみようと、本当にわずかな金額ですが、金融公庫での融資も受けました。この起業ですが、経験なし、人脈なし、資金なしの全くのゼロからの起業で、しかもカバーメイクという福井県では誰もやっていないサービスのものです。
カバーメイクとは、ウェディングドレスを着るときに、タトゥーやニキビ跡、シミや手術跡を特殊ファンデーションで数日間カバーするというものです。
起業セミナーや商工会議所の指導を受け、私はブライダルに特化することでターゲットを絞り、自宅の8畳間を少しきれいにしてサロンとして開業しました。
 紙媒体の広告は一切使わず、HPとブログでの集客をして、徐々に受け入れてもらえるようになり、福井県内の式場すべてに持ち込みで出入りできるようになりました。
徐々に新しいサービスを取り入れ、スクール事業も取り入れ、アクセサリーを作るスクールを開き、講師業も行うようになりました。
この講師業での仕事は、民間資格が取れることと、手軽に開業できることで受講生が集まり、私は次々に同じように講師を育てることになったのです。でも、教えながら不安が頭をよぎります。
「これって、同業他社を自分で作っている状態だから、いつかはうちに来てくれる人がいなくなるのでは・・?」と・・・。
でも、別の問題が出てきました。


それは、せっかく講師の資格までとった生徒さん自身に生徒がつかない。という事です。

同じようにサロンを開いても、売り上げが上がらない。やりたい気持ちはあるけれど、事業として成り立たないという問題です。
ちょうど女性の起業ブームが起きていた時で、「おうち起業」とか、「プチ起業」としてメディアでもいろいろな自宅サロンが取り上げられていました。でも、肝心な数字を管理する部分は、カリキュラムにはないので自分でやっていくしかないのです。でも、そこがすっぽりと抜けている女性がとても多い・・・。
最初は同じ立場の同業他社を育成することに抵抗がありましたが、そのうちその不安は無くなりました。みんな途中で辞めていくからです。


できない理由は出てきますが、どうすれば続けられるか? の考えにならないのです。


私が育成した約50人の受講生のうち、今でも継続して動いている方は2人しかいません。
この問題を考えているうちに、これは私も含めてもっとお金の事を勉強しないといけないと感じていました。

保険会社への転職・・・さらなる転機

そんな時、数年前に転職した友人から、食事のお誘いを受けます。

定期的に情報交換していましたので、いつもの食事会だと思い、軽い気持ちで参加しました。彼女は、外資系の保険会社に転職していて、最近所長になったばかりでリクルートの悩み。私は、そもそも起業したのが40歳過ぎで、ブライダル事業の後継者育成の悩み。お互いに悩みを話しているうちに、私の悩みは娘が引き継ぐことで解決できそうだという事になったのですが、彼女の悩みは解決できません。

だって、保険会社ってイメージ悪くないですか?

私の中で、なりたくない職業のトップ3に入っていました。
食事をしながら、いきなり彼女が「私、目の前にいい人いるのに、他を見てたわ!眞澄美さん、うちの会社の会社説明聞いてもらえない?」と言い出したのです。

いやいや、久しぶりに会ったのに、何を言い出すかと思ったら・・・。
絶対に保険会社の仕事は嫌や。ありえない。私には無理や。
その時はそう思っていましたし、まったく興味もなかったのですが、彼女は根気強く通ってきます。「とりあえず、会社説明だけだし、保険会社のイメージを変えたいだけだから」と・・。根負けする形で、話を聞くことになりましたが、これがまた大きく私の人生を変えるものになりました。

最初の結婚をしたとき、日本生命の担当の人に勧められて、個人年金と医療保険などに加入しました。ファイナンシャルプランナーの資格を目指していたこともあり、自分の保険を詳しく調べ、個人年金はそのままにして、子供の学資保険は不要な特約を外し、

医療保険などは他の会社の更新型以外の保険に切り替えました。

そうしたら・・・。担当者がうちに来なくなりました(笑)

そして、担当者が定年で退職した後は、なんと年に2~3回のペースで新しい担当者が挨拶に来ます。でも、私が入りなおした保険をみると、そのあと同じように来なくなりました。この経験から、保険会社の人って、保険に入ってくれる人しか興味ないんやわ。

と思っていましたから、その仕事に就くことなんてありえないと思っていました。
しかし、金融機関に勤めればファイナンシャルプランナーの資格も取りやすくなるのじゃないか? 資格を持ってから、女性にお金の管理の仕方とかを伝えた方が、ちゃんと聞いてくれるのではないか? 

そして・・・。何より私が幼い時に生活保護を受けていた、あの貧しい時の経験が頭をよぎります。

今の時代に、生活保護を受けることになったら、ひょっとしてSNSとかで拡散されて、もっと精神的に苦しむ人がでるかもしれない。それが小さな子供だと、その子の将来が大きく変わってしまうのでは? もしかしたら私と同じように、自分を押し殺すことで居場所を作ろうとする子供が増えるかもしれない。それだけは絶対に嫌だ。

そう思うようになり、保険会社への転職を考え出だし、2018年9月に入社することになりました。

入社してから約一か月半の研修で、初めまして!から、最後のプレゼン、クロージングまでの流れを学び、紹介入手までのロープレを徹底してやらされます。

やる気満々で、お友達に連絡をすると、受け入れてくれる友達もいれば、保険会社への転職を知ったとたん、着信拒否されることもありました。
当時は、かなり精神的に応えましたが、今では、まぁ・・。そんなものだろう・・と思えるようにもなりました。

ジブラルタでは、入社後2年間が新人扱いですが、多くの同期入社は1年持たずに退社していきます。そして、3年目に入ったときに、少し時間もできてきたので、ファイナンシャルプランナーの資格を本格的に目指すことにしたのです。

まずは、3級から受験し、その次に2級も取得。

20年以上かかりましたが、目指した資格を取ることができました。
そして、勉強すればするほど、保険でできることとできないこと。保険ばかりが良いわけでもなく、バランスも大事だという事。
そして、ジブラルタ生命の商品だけでは、お客さんの希望に沿うことができないこと。
これからは、運用や投資をしていくことも大事だという事。
色々なことを知れば知るほど、保険以外のことも伝えたくなってきました。

これから・・・芯となる想い

色々な経験をしてきた私ですが、自分で起業した時から目指していることは、

「一人でも多くの人を笑顔にすること」です。

時にカバーメイクを使い、時にはレッスンやスクールを開き楽しんでもらい、何が起きても経済的に困らないようにしておく。必死に仕事してきたなら余生は笑って過ごしてもらいたい。

人生の最後を、「やり残したことがない!楽しい人生だった!」と笑って迎えてほしい。そのためにも、生き抜く力もつけてほしいと思っています。

生き抜く力って、勉強ができればいいというものではなく、もっと幅広いものが必要になると思っています。
色々なことに興味を持ち、調べる、比べる、想像する、挑戦する、振り返る、等々、無関心ではないという事です。

もちろん、私も、もっと生き抜く力をつけなければいけません。

昔の私だったら、全部自分でやらないと・・!と考えたと思いますが、一人では限界があります。それに、生き抜く力の中には、頼ることも含まれると思っています。

一人で抱え込んで何もできないより、誰かを頼り一歩踏み出す方が必ずプラスになると思ってます。
踏み出したい方のサポートをしたい! その思いで、”パーソナルファイナンス” を立ち上げ、
前向きに頑張る方のサポーターとして寄り添っていきたいと思っています。